熊本城

jijii

2009年02月16日 14:27

熊本城の大天守閣と本丸御殿



熊本城は大天守閣と小天守閣があって、明治10年(1877年)、西南戦争の年に焼失してしまいました。現在の大小天守閣は、古い写真や絵地図などを基に、昭和35年(1960年)に復元されたものですが、瓦の列や数まで細部にわたって忠実に再現され、大天守閣は地上6階地下1階、石垣の上から高さ約30m、小天守閣は地上4階地下1階高さ約19m。内部には加藤家、細川家、西南戦争の資料を展示してあります。


熊本城は別名「銀杏城」と呼ばれその名の由来になっているのは、城内に植えられた銀杏(いちょう)の木である。これは、篭城戦になった時の食料確保のため、築城時に加藤清正がこの銀杏を植えたという。朝鮮出兵での蔚山城籠城戦での苦しい経験を生かしているといわれているが、この銀杏の大木は雄木なので実はならず、城内を知らない者が後世創った俗説と考えられる。



また、清正は「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時にこの城で兵乱が起こるだろう。」とつぶやいたという言い伝えがある。明治時代、清正が植えた銀杏の木は天守とほぼ同じ高さになっていたが、明治10年に西南戦争が起こり、熊本の城下が戦場となった。 また、同様に篭城時の食料の確保に関して、清正は城内の建物の土壁に干瓢(かんぴょう)を塗篭め、畳床には食用になる里芋茎を用いて備えたという。



城内には篭城戦に備えて140以上もの井戸が掘られてあったという。




加藤清正公によって創建され、藩主の居間や対面所(接客の場)などに使われた熊本城の中核をなす建物です。



本丸御殿は西南戦争直前に天守閣とともに焼失した。現在の本丸御殿は熊本城復元整備計画により復元したもので、往事の本丸御殿には、藩主の居間、対面所(接客の場)や台所等の機能が備わっていた。



平成15年の秋から復元工事がはじまり、平成20年春に落成を迎え、一般公開されました。
大広間(対面所)、数奇屋(茶室)と大御台所を復元された。


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